歴史と伝統文化を後世に引き継ぐ
歴史や伝統文化と聞くと郷土芸能を思い浮かべる人が多いだろう。十和田湖を源流とした奥入瀬川の下流部にある幸運橋(おいらせ病院付近)を北に越えた場所に、明治6年に創業して以来、今もなお手焼きにこだわり1枚1枚の煎餅を焼き上げる老舗がある。
店主である川越さんは、順調だったシンガポールの会社を退社し、稼業を継ぐため平成27年においらせ町へUターンした。首都圏の大学へ進学した川越さんは、卒業後に神戸の商社へ就職した。その後、英語を学ぶためのアメリカ留学を経て鉄鋼関係の仕事に就き、シンガポールの子会社で取締役を務めた後のUターンであった。稼業を継いだ川越さんは、取締役で培った経験や知識を活かしながら、歴史と伝統のある煎餅店での生活を始めた。
Uターンする切っ掛け
川越さんは、海外の生活が長くなったことで日本や田舎に対する想いが募ってきた頃、父と母から川越せんべい店を閉めるという話があり田舎へ戻る決意をしたという。歴史的には、川越せんべい店が南部せんべい店で日本最古であり、この歴史と伝統を次の代に届けたいと考えたのもこの時期のこと。田舎で暮らしていけるのかという不安はあったようだが、海外での経験を活かせば稼業の煎餅店でも生活していけるのではないかと前向きに考えるようになったようだ。
ショリショリ感
3代目店主として意気込んでいた川越さんは、父から「お前は5代目だ。」と言われ驚いたという。初代店主は、天保時代の生まれ。現在の煎餅の形に近づいたのは天保の飢饉のあとに普及した『てんぽせんべい』であり、4代店主(川越さんの父)が、川越せんべい店の魅力(こだわり)を『ショリショリ』食感として確立した。川越せんべい店といえばショリショリ感が楽しめる煎餅が魅力だ。店主曰く、硬さの中に柔らかさがある感じをショリショリ感というようだが、食べてみないとこの表現は伝わらない。煎餅を噛んだときのパリッとした硬さの中に柔らかさを感じることが出来る。噛む度に、粉の旨味と心地よい塩加減が口の中に広がり、気が付くとお腹と心が満たされ安堵してしまう。このショリショリ煎餅を焼くために必要なのが、通常の倍の長さがある石窯である。窯が長いため火の加減が難しい。しかも、手の感覚による焼き時間の調整と焦げる寸前で焼き上げるという職人技があってこそ完成する煎餅なのである。
不安はある
川越せんべい店の歴史として、初代が一丁型を用いた手焼きの天保煎餅により創業し、二代目がパリッとした煎餅を焼き始め、三代目が一丁型から手押し石釜式の連続手焼き器を導入した。昭和40年代に、四代目が長い石窯と連続手焼き器にモーターを導入し現在に至っている。現在の石釜を導入する際、石窯の職人から「焼きづらい窯になるからお勧めできない」と、言われたようだが、ショリショリ感のある煎餅を焼くために必要な窯であるため、四代目は、「焼きづらさや窯の扱いにくさは自分のウデと技術でカバーする。」と、職人ならではのこだわりを見せたようだ。現在、石窯を修理できるお店が南部地方に1件しかないが、そこも近々閉店するという。大手の煎餅屋は、機械による全自動化で人が触ること無く製造できるようだが、川越さんの受け継いだ煎餅には、特別な石窯が無いと製造できないこだわりが存在し、その手焼き煎餅には業界の多くの店で後継者が無く、また、石窯の修理店にも後継者が居ないという現実がある。これからは、煎餅を作ることは勿論のこと、窯のメンテナンスも川越さんがやらなければならないという不安がある。
家族や従業員に支えられ
川越さんが子どもの頃、町には煎餅店が5店あったが、今は川越せんべい店しか残っていない。川越さんは、「私だけが頑張っても煎餅が出来ない。妻が煎餅のたねを手ごねをしているが難しい作業。窯の温度は500度程であり、焼き上がった煎餅の温度は200度程である。煎餅の型が3秒ほど開閉する間に煎餅を外し新しい煎餅を乗せなければならない。焼くときは、その作業に集中しないと出来ないし、手の感覚が頼りなため、素手での作業となるため火傷は日課。父に手袋付けて作業していいか聞いたこともあるが、自分の手の感覚で確かめて焼かなければ美味しい煎餅にならないと一喝された。たかが煎餅だが、伝統芸能に近い感覚です。」と煎餅作りのむずかしさを話してくれた。川越せんべい店の従業員は川越さんを含めて4名。運営は費用の持ち出しが多くボランティア活動している感じの経営だが、今後は経営を軌道に乗せたいと語る。川越さんの奥様からもお話を伺う事ができた。神戸出身の奥様は、雪国の冬が長くて寒いと語る。地元関西と東北では食文化が異なるが、海外で数年暮したので食べ物に関しては抵抗がない。おいらせ町に戻ると聞いたときに若干の抵抗はあったが、1年暮らしてみて、交通が便利だと感じる。自然豊かな川が家の近くにあり、冬には白鳥が飛来する風景が心地良いし、近所の人が優しい。
将来の夢
昔、肴町(川越せんべい店のある地名)は2度の大火に見舞われ、店もその犠牲となり焼失した。焼け残った店舗から見つかったのは焼印のみ。現在、その焼印をロゴマークとして商品のパッケージを作り川越せんべいを広めていく取り組みを行っている。また、野辺地町にUターンした夫婦の珈琲店「自遊木民族珈琲」さんとコラボしてアイス&煎餅を提供している。平成30年は、せんべい状粉食を研究し、おいらせ阿光坊古墳の浪漫を体現する古代せんべいと作り、おいらせ町歴史と食文化をアピールしたいと考えている。サラリーマン時代は、朝から晩まで数か月間もの期間働くことがあったが、家業を継いでからは自分で時間をコントロールしショッピングやゆっくりと休暇を楽しむことが出来ていると言う。「おいらせ町の塩を作り、とことん町にこだわった煎餅も焼いてみたい。」と、語る川越さんは、地元の歴史と家業の技術を後世に継ぐため、これからもソウルフード「ショリショリ煎餅」を焼き続ける。